[2015年3月2日〜3月5日 関西遠征2]

三つ目が通る!!

京阪沿線に住む人、おけいはん


<3/5 その3>3/5のTwilog


伏見です。札幌でも名古屋でもありません。


伏見駅
近鉄 伏見駅。


さて、駅からまず国道沿いを歩いてみるわけですけども…


この位置に取り付けるのは見たことがない
駅近くの信号交差点。
視覚障害者用のスピーカーの取り付け位置が珍しかったので(通常は歩行者用信号の上)。



その交差点のすぐそばに公園があるのですが、


往年の京都市電
なんと、京都市電の保存車両が!


第二の人生
かつてはこの地を走って、多くの人たちを運んだ市電。
今は地域の集会所として使われ、人々のお役に立っているようです。



お城
向こうに見えるのは…桃山城?


さて、この伏見での最初の目的地は、伏見郵便局です。
ここまで記事をご覧くださった方ならその理由もわかるはず。


伏見郵便局
フォルムカードは全種類ありました!


再び伏見駅に戻り、今度は南口を南下していきます。
Googleアースで事前に調べたとはいえ、道路の狭さに京都を感じます。


10分ほど歩いてたどり着いたのは、顕正寺さまです。


顕正寺 山門
昨年11月に会った実修生同期・D上人が住む寺院です。いかにも京都の寺院らしく立派な門構え。



天明義民板屋市右衛門墓所…
ここは「伏見七義民伝」の一人の墓所だった!
※このことは後程聞きました



【伏見七義民伝】(要旨)

山城の国、伏見。
淀川によって京都・大阪を繋ぐ物資の集散地として栄えていた。
そのため政治上の重要地として幕府直轄の奉行所が置かれていた。

しかし伏見奉行・小堀政方(まさみち)は職務に飽き、愛妾・お芳の方や側用人の甘言に操られ夜となく昼となく酒宴を繰り返していた。

限りある財政の中で出費は嵩み、そのしわよせは税として伏見の町に降り注いだ。税を納められない者は投獄され、御用金の額は十万両にも及んだとされている。
その悪政の数々は目に余る者ものであった。畳に税をかけ、毎月徴集し払えなければ畳は没収され二束三文で処分された。さらに家の新築・造作・修繕にまで税をかけ、職人たちの仕事は減り、町は荒れて町民たちは苦しめられた。豊かな繁栄を誇っていた伏見は、その面影を失ってしまった。


深草・真宗院。ここは伏見奉行所の管轄外。
ここに伏見の町年寄の代表者七名がひそかに集まった。

・焼塩屋権兵衛
・板屋市右衛門
・伏見屋清左衛門
・柴屋伊兵衛
・文殊九助
・丸屋九兵衛
・麹屋伝兵衛

「税が厳しすぎる 何とかしなければ…」
「このままでは、伏見の街は滅んでしまう…」
「江戸へ直訴するしかない!」

九助・九兵衛・伝兵衛の三人は各々奉行所の目を盗み、江戸への旅に出た。
厳しい道中を耐えて、江戸・深川にある陽岳寺の昭道和尚の元へたどり着く。
その過酷な長旅のため、伝兵衛が病に倒れたのであった。


そして運命の 天明五年九月十六日 
寺社奉行 松平伯耆守の駕籠の前・・・

「御訴訟でございます!」

伏見の街の命運をかけた直訴だった。


「狼藉者!」「捕まえろ!」

警護の侍が、二人を捕えようとすると駕籠の中から、

「取り上げてつかわせ 事情ありげな者とみゆるぞ」

その言葉に刃を納めた侍は、二人の訴えを取り次ぐのである。


その後二人は公事宿(くじやど:訴訟や裁判のために遠方から来たものを宿泊させた江戸時代の宿屋)預かりとなり、二ヶ月が過ぎた。
その間に病に伏していた伝兵衛が亡くなり、伏見では三人の出立後に事が露見し残った家族が投獄された。


十二月五日 評定所
老中・松平周防守により、訴えは取り上げて吟味されることが伝えられた。
二人の宿預かりもこの日限りとされて、帰国が許されたのである。


伏見までの道のり、二人は東海道を歩く。
富士の麓で天明六年の元旦を迎えた。


伏見の町では、数百人の町民が二人を出迎えた。
一方、伏見奉行の政方は江戸への呼び出しを受け、冬の木曽路を力なく歩いて行った。


しかし、その喜びもつかの間。運命は義民たちに容赦なかった。
新任の伏見奉行に呼び出された六名は、後吟味として厳しい取り調べを受け投獄された。
四名が命を落とし、なんとか生きながらえた九助と九兵衛は、天明七年十二月に再吟味のため江戸へと送られることになった。
そんな二人との別れを惜しみ、大勢の伏見町民が逢坂山を超えて大津の町まで追っていたという。


十二月二十八日に江戸に到着後、すぐさま取り調べが行われた。
翌年一月三日、九助も息を引き取った。
評定所に毎日出頭し続けた九兵衛も、ついに一月二十三日に亡くなった。


それから四か月後 天明八年五月六日 結審。

九助をはじめ七人全員の無罪が確定。
小堀家は所領をことごとく召し上げられ、
小堀政方は小田原藩にお預けの身に、
家臣や役人は死罪・流罪・追放などの重罪の処せられた。


伏見の町には生気が蘇り、町民たちの暮らしに平穏が戻ったのであった。


(伏見歴史顕彰会発行「直訴!伏見七義民伝」より)

なお、伏見義民碑は伏見区内の「御香宮神社」にある。
毎年5月18日に慰霊祭が行われている。




なお、先述の「板屋市右衛門」は、村上町に住み製材業を営んでいたそうです。
(天明七年十月二十日、京都町奉行所内で死亡)


応接間に通されしばしD上人(一応匿名にしておく)歓談の後、本堂を案内していただきました。


本堂 正面

本堂 右側


本堂 ここで幼少期より師父より指導を受けていたことがうかがえる。
畳に額づいた時にそれを感じた。



「日朝水」で有名な御方
身延山第11世・行学院日朝上人が祀られている。


この後、なんと昼食が用意された!
全く予想していなかったので、これは驚いた。
こんな私には勿体ないくらいの厚遇、噛み締めて醍醐の味を頂戴しました。


経王堂
昼食後、本堂の隣にあるお堂を案内していただく。鳥居には「最上位経王」の文字が見える。


七面大明神を祀っている
内陣


月見大明神
D上人曰く「全国でも稀な月見大明神を祀っているんです」
本堂横の祠にある石が重いと感じたらその場所に、
軽いと感じたらこの場所にいらっしゃるそうな…




いよいよ顕正寺さまを出発する時間になってしまいました。
玄関先まで住職の奥様にお見送りいただき、D上人が丹波橋駅まで道案内をしてくださることに。
道中、道を聞いてきた年配の男性にサッと案内をするD上人。さすが地元民。



京阪 丹波橋駅
丹波橋駅 近鉄との乗換駅だが、駅前は驚くほど入り組んでいる。
D上人曰く「京阪は、京都には欠かせない会社ですよ」



「京阪の特急は別料金がないんで、お得ですよ」との勧め。
案内表示には特急が到着する表示だったのでこれに乗車することに。
改札口で次の再会を期してガッチリ握手し、丹波橋を後にしました。


顕正寺さま D上人 温かいもてなしと参拝 ありがとうございました



実はこの時、これほどの厚遇と温かい心づくしを頂けて、
感動して泣きそうで、振り向くことができませんでした。

此処に来ることが出来て、本当に良かった。
ホームに降り立った時、目から… …違う!これは心の汗だ!(強がり

京阪 丹波橋駅 駅名標
丹波橋から、再び旅の再開。
大手私鉄で最後まで未乗車だった京阪電車です。



乗り換えのため2駅先の中書島までなのですが、特急電車が来ました。
(なので通過駅は、伏見桃山駅のみ)


たった1駅分だけれども
8000系はリニューアルされました。


もっと距離が長かったらダブルデッカー(二階建て車両)に行くんですけど…
先頭車に乗って、中書島に到着しました。

京阪 中書島駅 駅名標
中書島駅 宇治線へ乗り換えです


京阪 8000系
これが京阪特急。京阪電車では最近カラーリングが変わりました。
変わる前に乗ってみたかったですねぇ。



宇治線ホームにはすでに電車が停まっていました。


京阪 13000系
京阪電車の最新車両 13000系


京阪 2800系
と、そこへ2800系。これは京阪の中でもかなり古い車両です。
保守技術に定評のある京阪では昭和40年代の車両がほぼ現役です。



置いてかないでくれ〜(泣
と、撮影を終えて乗ろうとしたらドアが閉まってしまいました…


仕方ないので、10分待つことにして少し撮影を…


京阪 2400系
京阪2400系 見てわかるように中書島駅はかなりきついカーブになってます


京阪 10000系
宇治行きの電車が比較的すぐ来ました。今度は乗り遅れないようにしないと…


中書島←→宇治
往復の幕ですが、横一列に書かない斬新なデザイン。さすが京阪。



京阪本線を離れ、宇治線へ進みます。



>>つづく

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